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私たちの教会です。どうぞおいで下さい。お待ちしています
                    しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。 詩編130編 4節
 

2020.5.31礼拝

「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、

あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」使徒2:17



 今日はペンテコステの礼拝です。主イエス様は、弟子たちに言われました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。…あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1章)

 テモテ二の1章にて、パウロはその愛弟子テモテにこう語りました。「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。

だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」 イエス様はヨハネ14章以降にてこう言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。…わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。…弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。…あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 この御言葉を思い起こし、注がれた聖霊の御力を信じて進みましょう。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」











 

2020.5.24礼拝

「主は人ひとりいないのを見 執り成す人がいないのを驚かれた。

主の救いは主の御腕により 主を支えるのは主の恵みの御業。」  イザヤ59:16



「救いが今もたらされないのは、主の手が短く、主の耳が鈍いせいだ」

こう信じてやまない神の民こそ耳の鈍い者たちでした。

 彼らの手も指は汚れ、唇も舌も偽りと悪事をつぶやき、正義はないがしろにされ、害毒と偽りに満ちていました。手には不法の業があり、足は悪事に走り、罪もない人の血を流そうと急ぎ、災いの計画を立て、破壊と崩壊がそこにはありました。平和もありません。

 主の手が短くて救えないのではなく、主の耳か鈍いのではなく、彼らの不法により、正義が遠く離れ、恵みの業が追い付かないのであり、心の奥底からの悔い改めがなければ、光を望もうとも闇の中を歩き続けると預言者は語ります。しかし、初めは「お前たち」と繰り返されている言葉は、「わたしたち」に代わっています。預言者は、民を代表して罪を告白し、とりなしの祈りをします。

 「まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。」しかし「主は人ひとりいないのを見執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により主を支えるのは主の恵みの御業。」「主は恵みの御業を鎧としてまとい救いを兜としてかぶり…」「主は贖う者」。かつては放縦の限りをつくした汚れ切った者に、その口に主の言葉をおき、「わたしの言葉はあなたの口からも、あなたの子孫の口からもあなたの子孫の子孫の口からも今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言われ」ます。感謝いたします。











 

2020.5.17礼拝

「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。」      イザヤ58:6



神と民との間に立ち続けたモーセは、ホレブ山で契約の板を受け取る前、主が激しく憤られたとき、また山を下りて民の放縦のゆえに主が憤られたときに40日40夜パンも食べず水を飲まずに主の前にひれ伏し祈りました(申命記9章)。士師記20章にもイスラエルの民が泣いて断食した様が描かれ、サムエル記上7章でもサムエルがイスラエルの犯した罪のゆえに断食したと書かれています。

断食は、その肉体的苦痛を通して深い罪の自覚と畏れをもって神に近づく者の熱心な祈りと悔い改めを表現します。粗布をまとったり(35:13)、灰をかぶり祈る(エステル4:1)のも、自分の無価値、愚かさを言い表す表現です。

このように、断食とは、神の前の自分を顧み、神に近づき、神の道を知ろうと願う、民の生活の歩みの変化を願う悔い改めの行いですが、表面的に断食を行って人々からの称賛を受けようとしたり(マタイ6:6)、神の思いをわきまえずに誇りとなっている断食(ルカ18:12)など、偽善的行動である断食について、イエス様がたとえとともにお語りになっておられます。

私たちの断食は、礼拝は、宗教的なキリスト教的な歩みは、イエス様と歩みを共にするものとなっているでしょうか。それともおざなりな、表面的なものにとどまっているのでしょうか。











 

2020.5.10礼拝

「わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。

 わたしは、とこしえに責めるものではない。」       イザヤ57:15,16



前章では羊飼いたちが強欲で飽くことを知らず、民を導くべき職を自覚せずに見張る力なく、危うきの警告もできず、伏してうたたねし、自分の好む道に向かい、自分の利益を追求する様が描かれました。今日の書においても、神の民の放逸と神への欺きが赤裸々に描かれています。偶像崇拝とそれに結び付いた人目をはばからない姦淫と性的放蕩、霊媒によって死者へ意見を聞いたり、わが子を火にくべ、偶像へのいけにえとしたりということを疲れもせず、手の力を弱めもせずに邁進する、偶像の力に完全に取りつかれている姿が描かれ、イザヤ書の中で民の深い闇の部分が如実に描かれています。

これではすべてを失い、国を失い、打ち負かされ滅ぼされ、命を奪われてもしかるべきという転落ぶりです。しかし主は14節にありますように、救いの道を築かれます。そのために打ち砕かれ、絶望して、くずおれたものよ、我に答えよと語りかけられます。「私がとこしえに沈黙しているとでも思うのか」と語りながらも「私はとこしえに責める者でない」と語られ、「彼の道を見た」と、人のどす黒い罪の道を見ながらも、「私は彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう」と語られるお方です。人がまだなお罪の中にある時から救いを計画される方。捕囚にあう前から解放を預言される方。この方の慈しみを知らされては、私たちはどうしてまだこの方を侮り、軽く考えることが出来るでしょうか。真剣に私たちに向き合われるお方に、私たちも誠をささげ、心からの礼拝をささげたいと願います。

 

2020.5.3礼拝

「主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。…わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」    イザヤ56:3,7



この章では神様を畏れ、神の道を行く幸いなる人々と、神様を畏れない、自分の好む道を行く人々とが対比されています。

「わたしの救いが実現しわたしの恵みの業が現れるのは間近い」ので、「正義を守り、恵みの業を行え」と主は語られます。そしてそれを行い、固く守る者は、たとえ主の集会に集うことが許されなかった宦官(申命記23)であろうと、異邦人であろうと、主の山、祈りの家の喜びの祝いに連なることを許され、追い散らされたイスラエルであろうと、集められると語られます。一方、強欲であくことを知らず、自分の好む道に向かい、自分の利益を追い求める羊飼い、牧者のために野のすべての獣、森のすべての獣は彼らを食べに来るがよいと主は語られます。彼らは酔いどれの俗歌のごとく神を畏れず、見る力のない見張り、吠えることのできない番犬のように無責任で無価値になり下がり、警告を発することもできず過ごします。「油を絶やなかった賢いおとめ」(マタイ25)のように、知らぬうちに主にお仕えして「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言って頂いた僕のように(25:40)、主を畏れ、隣人に仕え、「ここは主の祈りの家」と、敬虔な日々を過ごせますように、祈り進みましょう。

主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれ(ルカ12:42)かとの御言葉が思い起こされます。

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」日々礼拝の心で、進ませていただきたく、主の憐れみを祈るばかりです。











 

2020.4.26礼拝

「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」イザヤ55:11



申命記の8章にはこうあります。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

この章に書いてあります「渇き」と「飢え」は何を意味しているのでしょうか。主がこれほどに重ねて「来て」「得よ」(1節)と語っておられるのは何のことなのでしょうか。

2-3節には、「聞き従って魂に命を得よ」との御言葉があります。これこそが主が来て、得よと諭される中身です。主を尋ね求め、呼び求め、神に逆らう道を離れ、たくらみを捨て、主に立ち帰るならば、憐れみと許しを得、主キリストの贖いによる命を得ます。

8-9節では「わたし(神様)の思い」「わたし(神様)の道」が人間の思い、人間の道を高く超えているとあります。人が一生懸命に渇きをいやし、飢えをいやそうとして手を伸ばした水や穀物。しかし主は、それらを必要なものとされ、さらにそれに勝る糧と飲み物をイエスキリストにあって備えて下さいました。とこしえの契約、御言葉なるキリストイエスを送られ、「むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。」今は困難の時、熾烈な艱難の時ですが、この荒れ野の旅の中も主がマナを降らせ、御言葉によって養い行かせてくださることを信じましょう。











 

2020.4.19.礼拝

「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。」      イザヤ54:8



激しく怒って(原意・怒りをあふれさせ、洪水のように注ぎだす)顔を隠される神様の怒りは束の間でひと時、しかし、その憐れみはとこしえ、永遠です。どうして主はお怒りを、そんなにも早くおしずめになられるのでしょうか。

創世記6章には、神様の壮絶な内なるお心が記してあります。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」そこで先にもありましたように、神様は怒りを注ぎだし、洪水を起こされました。そしてその後、雲の中に虹を置かれ、契約のしるしとされ、その契約を心に留め、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してないと語られました。

「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。」ここには贖いがあります。共に歩んでいた幸せな時も束の間、まだ若い時、人は神様を捨て去りましたが、主は贖いによる新しい契約を据え、とこしえの慈しみの中に置かれています。反逆という大きな汚点である恥を忘れ、虐げる者、攻め寄せる者から守られ、もはや何も恐れることがないようにして頂きました。今や私たちは「主について教えを受け、平和が豊かにあふれる」、恵みの業によって堅く立てられているのです。主に新たな感謝をささげましょう。

 

2020.4.12礼拝

「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」      ルカ24:32



「遺体が見当たらず」「途方に暮れている」「恐れて顔を伏せる」「この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった」「二人の目は遮られていて」「二人は暗い顔をして立ち止まった」などなど、イースターの日は、暗い朝、暗い日でした。

しかし天使は語ります。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」ここに、暗さからの脱却の道があります。

イエス様も語られました。「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」そして弟子たちは語り合いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」・・・ここに、途方に暮れ、夢や希望に敗れた難局からの打開の道があります。主は死から復活なさいました。この神様に救いがあります。この神様の言葉には力があり、この言葉を思い出すことに力があります。「暗闇は光に打ち勝たない」(新改訳)のです。











 

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宮地 聴 作